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March 2010 の投稿一覧です。

藤ノ木古墳
斑鳩藤ノ木古墳第2・3次調査報告書
25,000円(町内在住者に限り20,000円)

内 容
金 額
藤ノ木古墳パンフレット
1次
2.3次
保存科学
ダイジェスト版
400円
500円
300円
300円
藤ノ木古墳絵ハガキ(6枚入)
300円
藤ノ木古墳ネクタイピン
1,000円
斑鳩町の古墳
1,300円
駒塚古墳写真図録
200円
お問い合せ先

〒636-0114
奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺西1-11-14
斑鳩文化財センター
TEL 0745-70-1200 
FAX 0745-70-1201

埋蔵文化財

駒塚古墳の発掘調査(平成13年度)

駒塚古墳は国道25号線の南側に所在する前方部を南に向けた前方後円墳です。斑鳩町では平成12年度から駒塚古墳の発掘調査を実施しています。平成13年度は墳丘部分に9ヶ所の調査区を設けて調査を行いました。調査の結果、古墳の規模は全長49m以上、後円部の径約34m、高さ約5.5m、前方部の高さ約2m、くびれ部の幅(推定)約14.5mです。前方部、後円部共に2段に築かれていたことがわかり、斜面には葺石が葺かれていました。また、周濠の存在は確認されませんでした。出土遺物のうち古墳に伴うものでは埴輪や土師器などがあります。埴輪は非常に少ないことから墳頂部など一部だけに使用されていたと考えられます。土師器には二重口縁壷と呼ばれるおまつり用の壷があります。古墳の形態や出土遺物などから前期後半(4世紀後半)に造られた古墳である可能性が高まりました。駒塚古墳の調査は斑鳩町の古墳を考えるうえで貴重な結果をもたらしました。

遺 跡

西里遺跡 酒ノ免遺跡 東福寺遺跡 駒塚古墳 調子丸古墳斑鳩大塚古墳 瓦塚古墳群 仏塚古墳 御坊山古墳群史跡三井 若草伽藍跡 法輪寺 法起寺 史跡中宮寺跡史跡三井瓦窯跡 上宮遺跡

遺跡


西里遺跡
西里集落を中心した、標高60m前後の緩やかな丘陵南斜面に立地します。斑鳩では数少ない縄文、弥生時代の遺跡が見つかっています。弥生時代では方形周溝墓などがあります。また、飛鳥時代と考えられる掘立柱建物なども見つかっています


酒ノ免遺跡
掘立柱建物のみで構成された古墳時代の集落遺跡です。斑鳩東小学校建設に伴い実施した発掘調査により発見されました。その後実施された発掘調査から、現在までに50棟以上の建物が確認されています。古墳時代後期である5世紀代から6世紀代の時期のものが多くを占めています。奈良県下でも有数の集落遺跡の一つです。


東福寺遺跡
東福寺遺跡は斑鳩町東福寺を中心に展開する遺跡です。この辺りにはその名のとおり東福寺という寺がかつてありました。明治の廃仏棄釈に伴い廃寺となり、今ではその名を地名に残すのみです。この遺跡からは古墳時代の土壙や掘立柱建物、飛鳥時代の掘立柱建物、また、中世の井戸や建物など東福寺に関係すると思われる遺構が見つかっています。


駒塚古墳
国道25号の南側、幸前集落と国道25号線を挟んだ南側に所在します。前方部を南に向けた前方後円墳です。全長は約49mですが、前方部が削られていることから本来の全長は明らかではありません。古墳名は聖徳太子の愛馬である「黒駒」を葬ったとの伝承に由来します。平成12年度から14年度にかけて斑鳩町教育委員会により発掘調査を実施しました。調査の結果、古墳時代前期(4世紀後半)に築造されたことが明らかとなりました。駒塚古墳の南側に所在する調子丸古墳と共に平成4年10月8日に町史跡の指定を行いました。


調子丸古墳
駒塚古墳の南側約100mに位置します。直径14m程度の円墳です。聖徳太子の舎人で「黒駒」の世話をしていた「調子麿」の墓と伝えられています。平成12年度に古墳の北側で行った発掘調査では、馬具などの表現を施した精巧な造りの土馬の頭部が出土しました。時期は不明ですがあまり類例のないものです。


瓦塚古墳群
瓦塚古墳群は、前方後円墳2基と円墳1基とからなる古墳群で、法起寺の北西方向の標高70~80mの尾根上に立地します。
この古墳群の北端にある瓦塚1号墳は、昭和50年度に範囲確認の発掘調査が実施され、全長約97m、後円部径約60m、前方部幅約47mの前方後円墳で、二段の埴輪列があることが確認されました。墳丘表面には葺石があり、後円部東側からは家形埴輪や鳥形埴輪などの形象埴輪が出土したマツリの場としての石敷きの祭祀場が見つかっています。埋葬施設については未調査ですが、竪穴式石室か粘土槨と考えられています。しかし、北側に接する大和郡山市に所在する小泉大塚古墳が竪穴式石室でありますことから、首長墓の系譜として同一と考えれば、同じく竪穴式石室と推測されます。
出土遺物につきましては、高さ40~60cmの高さの円筒埴輪や壷形埴輪があり、これらの埴輪のなかには、ヘラ記号や特殊な文様が描かれたものもあります。また特異な遺物として、復原しましたら8~11cm程度になる魚形土製品や直径3~5cmの円盤形土製品が出土しており、行者塚古墳(兵庫県加古川市)で出土した土製品の一群のように、古墳の祭祀に用いられたものとして理解されています。
以上のような内容から、瓦塚1号墳は、5世紀初め頃の斑鳩地域またはもう少し広く古代の平群地域一帯を治めていた首長墓と考えられています。
瓦塚2号墳につきましては、発掘調査は実施しておりませんが、測量調査が実施され、全長約95mの前方後円墳で、1号墳とほぼ同じ設計プランで造営年代もほぼ同じ頃と考えられています。しかし、他の地域のように尾根上に主軸方向を同じくして並ぶのではなく、1号墳が尾根線に主軸を合せて造営されているのに対して、その制約を受けたかたちで、古墳の主軸線が垂直方向に造営されています。
瓦塚3号墳につきましては、直径40m程度の円墳ではないかと考えられていますが、古墳であるかどうかを含め、詳細につきましては不明です。
なお、「瓦塚」の名前につきましては、瓦塚2号墳の後円部西側斜面に造られた瓦窯あとである「三井瓦窯跡」があり、その瓦片がひろくちらばっていたことに由来しています。


斑鳩大塚古墳
五百井の集落の北側、矢田丘陵から南に延びた緩やかな丘陵上に立地しています。直径35m、高さ4mの円墳です。昭和29(1954)年、墳丘上に忠霊塔を建設することになり、その工事の際に埋葬施設が発見されたことから、緊急調査が行われました。調査の結果、鏡、武器、武具などが出土しました。これらの出土遺物から5世紀初め頃の古墳と考えられています。


仏塚古墳

仏塚古墳は、法隆寺背後の通称「寺山」と呼ばれている丘陵よりさらに北にのびた小丘陵の先端部に立地します。
昭和51年の発掘調査の結果、墳丘規模等については一辺約23mの方墳であると考えられています。埋葬施設は南方向に開口する両袖式横穴式石室で、羨道部が一部未発掘であるが、確認できた石室長で9.36mを測ります。玄室床には礫が敷かれ、その下部には玄室を環状に巡って玄門部で合流して羨道部へ流れる排水溝が敷設されていました。
出土遺物のうち古墳造営当初のものとしては、亀甲形陶棺片や6世紀末頃の須恵器のほか、馬具や耳環や刀子があります。また鎌倉時代後期~室町時代にかけての金銅仏や塑像仏片や花瓶や六器にどの仏具、瓦器碗や土師皿などの土器類など仏教関連する遺物が多量に出土しており、中世に石室が仏堂として利用されていたことを示しており、近くにはその成立が鎌倉時代と考えられている極楽寺があり、それとの関係が指摘されています。
なお、法隆寺の北方にひろがる小丘陵には、6世紀から7世紀にかけての古墳が点在しています。7世紀と言えばまさに聖徳太子が斑鳩へ進出し、その後約半世紀にわたり上宮王家による活躍があったことから、斑鳩宮との造営時期が近接する上、斑鳩宮を臨む立地であることなどの点から、仏塚古墳の被葬者と上宮王家との関連を指摘する意見もあります。


御坊山古墳群
藤ノ木古墳の西側で、宅地造成工事中に3基の古墳が発見されました。なかでも3号墳は横口式石槨という特殊な構造をしたもので、漆塗りの陶棺内には人骨と共に、三彩を施した硯、ガラス筆管、琥珀製枕などが出土しました。石槨の構造や副葬品から7世紀代の古墳と推定されています。現在これらの古墳は住宅地となり消滅してしまいましたが、3号墳の横口式石槨や副葬品は橿原考古学研究所附属博物館に常設展示されています。


史跡三井
この井戸は、法輪寺旧境内の範囲に含まれ、聖徳太子が開掘した三基のうちのひとつだと伝えられており、法輪寺の別名である「三井寺」や「御井寺」についても、この井戸に由来しているようです。
この井戸は、明治年間には埋没していましたが、昭和7年に発掘調査が実施され、深さ約4.25m、上部直径約91cmであることがわかりました。
構造としては、底部に4個の石を方形に組み合わせて、その内外の隙間より水が湧き出るようになっており、側壁は中膨れの筒状を呈してあり、底面より約1.15mの高さまでは乱石積みで構築し、その上約3mを長弧長約29cm、短弧長約23cm、長さ約23cm、厚さ約7.6cm扇形の「せん」を積んでありました。
法輪寺より出土する瓦には「王井」の文字を刻印した瓦が出土しており、せん積みというその特異な構造ということからも、法輪寺とこの井戸とはかなり密接な関係があったと推察されます。





法輪寺
斑鳩の飛鳥時代寺院として著名な法輪寺ではありますが、その創建については、『聖徳太子伝私記』の聖徳太子の子である山背大兄王と、その子の由義王が、聖徳太子の病気平癒を願って建立したとする説と、『上宮聖徳太子伝補闕記』の斑鳩寺が焼失したことから、百済聞法師等三人が建立したとする二つの説があります。
これまでに境内において、石田茂作氏による法隆寺式伽藍配置建物全体の調査や、三重塔再建に伴う基壇の調査などが実施されていますが、金堂跡や講堂跡等については、1950年に実施された調査写真や略測図しかなく、その詳細について明らかでなかったことから、平成12年度より、斑鳩町により学術調査として発掘調査に着手しています。
金堂については、平成12年度の発掘調査では、金堂の基壇である石積み基壇の基底石と考えられる石列および版築の施された基壇を確認し、東西約15m×南北約13mを測りました。また基壇の造営にあたっては、基壇のおよそ半分が旧地形を削った安定した場所に立地しているためか、掘り込み地業はなされていないことがわかりました。
塔については、三重塔の再建に伴い発掘調査が実施されており、乱石積みの二重基壇で、下成基壇は一辺13.2m、高さ約20cmで、上成基壇は一辺12.4m、高さ1mを測ります。心礎は基壇上面より約2.3m地下にあり、直径1.65m×1.52m、厚さ80cmほどの花崗岩製で、その上面中央に直径約36cm、深さ4cmの蓋を納める掘り込みがなされてあり、さらにその底に直径15cm、深さ10cmの舎利孔が穿かれていました。そして、この舎利孔からは、元文四(1739)年の修理の際に、国の重要文化財に指定されています銅製の舎利壺がみつかっています。
講堂については、東側半分の発掘調査が実施されており、基壇の規模は東西約30m×南北約12.6mと推定されています。なお基壇の種類は、南側のみ瓦積みで、東面・北面は乱石積みであったといわれています。
中門については、現在の門の北側で礎石を抜き取った跡が確認され、基壇の規模は東西約12m×南北約8.4mと推定されています。
回廊については、南面の発掘調査により中門の東西に東側8間、西側7間、柱間は約3.3mと推測されており、他の面は不明です。回廊基壇規模としては、東西約60m、南北41mと推定されています。
南大門については、絵図には描かれており、その推定地の近くが発掘調査されていますが、明確な遺構は検出されていません。
平成12年度の発掘調査により出土した遺物としてはその多くが瓦類であり、出土した軒瓦のセット関係のうち、中世以前のものとしては、飛鳥前期、白鳳期、奈良期の三セットがあります。
金堂の造営時期については、基壇周辺より出土した瓦やその出土状況の検討等から、塔と同様に飛鳥期の軒瓦を所用していたと判断できることから、7世紀後半で大過はないものと思われます。
塔の基壇より飛鳥期の軒瓦が出土していること、そして飛鳥時代寺院建立のあり方から、講堂が金堂や塔の建築に先行したとは思えないことから、それより古い飛鳥期の軒瓦については、法隆寺式伽藍配置を構成している建物に用いられていたと考えるよりは、それらに先行する建物が存在し、それに用いられていたと考える方がより妥当であると思われ、この飛鳥期と白鳳期の瓦の存在こそが、冒頭に述べた二つの創建説を解明する鍵になるものと推察されることから、今後はこの「前法輪寺」とも言うべき前身の仏教的建物の遺構検出に期待が寄せられています。


法起寺
法起寺の発掘調査は昭和35年の石田茂作氏による調査以来数度にわたり実施されています。調査の結果、金堂を西に塔を東に配置した法隆寺とは逆の建物配置をとることが明らかとなり、この配置を法起寺式伽藍配置と名付けられました。また、法起寺とは異なる遺構も見つかっています。磁北に対して西に20度の振れをもつ柵列や掘立柱建物、石組溝などです。これは若草伽藍(建創法隆寺)や斑鳩宮の方位と一致することから、法起寺の全身遺構である岡本宮のものと推定されています。


史跡中宮寺跡
現在の中宮寺は法隆寺東院の東側にありますが、元は400m東方に所在していました。現在の中宮寺と区別するため創建中宮寺を中宮寺跡と呼んでいます。現在でも塔、金堂の基壇が土壇状の高まりとなり残っています。これまで数度に渡り発掘調査が実施されていて、調査の結果から、塔、金堂が一直線に並ぶ四天王寺式伽藍配置をしていたことが明らかとなっています。これは聖徳太子が建立した斑鳩寺(若草伽藍)と同じ建物配置をしています。ただし、講堂や回廊は見つかっていないことから未完の寺であったようです。中宮寺跡は我が国における貴重な遺跡であることから平成2年と平成13年に国史跡の指定を受けました。


史跡三井瓦窯跡
三井瓦窯跡は、法起寺西側の尾根丘陵に立地する瓦塚2号墳後円部の西側斜面に所在します。
昭和6年に果樹園を開墾中に偶然に発見され、奈良県による第1次調査が実施され、天井部のア-チの残存状況がよい約40度の勾配をもつ「地下式有階有段登窯」(1号窯)であることが明らかとなり、窯内からは丸瓦と平瓦が出土しました。
瓦窯の操業時期としては、出土瓦と窯近くで採集された軒丸瓦が法輪寺や法起寺出土の八弁複弁蓮華文軒丸瓦と同范瓦であることなどから、七世紀後半から八世紀初め頃と考えられています。
窯体の規模の規模としては、残存する窯体の水平長は約4.9mで、高さは約3.8mを測る。また燃焼部の最大径は約1.8mで、焼成部の第1段目から天井までの高さ約1.3mであり、第1段は燃焼部底より高さ約79cmであり、それより上段の第2段から現存する第10段までの段の高さ36.4~45.5cmで、各段の幅は約30cmを測ります。
なお、平成7年度には、災害復旧工事に伴い第2次調査が実施され、1号窯に先行する天井部の崩落した2号窯を検出しています。また1号窯の焚口前面の平坦部において丸瓦を管として利用した排水溝や柱穴を検出するとともに、二面の灰原が検出されています。
三井瓦窯跡は、斑鳩における7世紀の斑鳩古代寺院の成立に関連する生産遺跡として重要といえるでしょう。


上宮遺跡
上宮遺跡は、平成3年度の歴史公園整備事業に伴い発掘調査を実施したところ、奈良時代の大型の掘立柱建物群が見つかったことにより新たに名付けられた弥生時代から鎌倉時代の複合遺跡です。
発掘調査の結果、五世紀から六世紀にかけての掘立柱建物や溝を検出し、須恵器や埴輪等が出土しているが、遺跡の中心は飛鳥~奈良時代のものです。
飛鳥時代の井戸や溝からは比較的まとまったかたちで、七世紀前半頃の土器が比較的まとまって出土しており、その他に八弁素弁蓮華文軒丸瓦や二次焼成を受けた凝灰岩製切石やせん等の仏教的建物の存在を推測させる遺物も出土しています。これらのこととあわせて法隆寺で聖徳太子の亡くなった宮殿の跡地に建てられたと伝えられる成福寺が所在していることから、『大安寺伽藍縁起并流記資材帳』に記載のある「飽波葦墻宮」の実在性が有力視されています。
奈良時代の大型掘立柱建物群は二時期に分けられ、現在までに八棟分が確認されています。その中でも「主殿」と解される東西7間×南北5間の建物は二面庇の大型の建物であり、この建物を中心に平城宮や官衙等でみられる「コ」の字状の建物配置をしています。そして出土遺物には、平城宮や平城京出土瓦の同范瓦を含む多くの瓦や土器が出土しており、文字史料としては、墨書土器二点と木簡一点が出土していますが、遺跡の性格を決定付けるものではありません。これらのことを勘案すると、奈良期の遺構については、『続日本紀』の神護景雲元年と三年の記事にある称徳天皇が河内へ行幸する際に、止宿した「飽波宮」である蓋然性が高いといえます。なお、平安時代末頃から鎌倉時代の井戸を5基分検出し、そのうちの一基には一本木を刳り抜いた井戸枠を使用していました。出土遺物としては白磁碗、瓦器碗、土師皿などが出土していますが、これらは、平安時代頃に成立したと考えられている成福寺に関連すると思われます。
このように上宮遺跡は、斑鳩において法隆寺等の寺院以外の飛鳥時代から奈良時代の歴史的様相を示す重要な遺跡といえるでしょう。
社 寺

法隆寺 法起寺 法輪寺 中宮寺 吉田寺 仙光寺 融念寺勝林寺 伊弉冊命神社 素盞鳴命神社 龍田神社

社寺


法隆寺
金堂の薬師如来像の光背銘や「法隆寺伽藍縁起并流記資財帳」等によりますと、用明天皇の病気平癒を祈って寺と仏をつくることを発願しましたが、そのまま崩御されたことから推古天皇と聖徳太子がその願いを引き継ぎまして建立した寺だと伝えられています。
しかし、法隆寺につきましては、明治時代以降現在に至るまで続いております「法隆寺再建・非再建論争」として未だに決着しているわけではありませんが、聖徳太子により建立された「斑鳩寺」は現在の法隆寺西院ではなく、その南東方向にある「若草伽藍跡」ではないかという説が有力で、現在の法隆寺西院は、『日本書紀』の天智天皇九(670)年に、斑鳩寺が焼失して間もなく建てられた寺院と考えられています。
奈良時代になり、聖徳太子の斑鳩宮の荒廃ぶりを嘆き、孝謙天皇により建立されたのが「夢殿」で、この夢殿を中心とした地域を法隆寺東院と呼ばれています。



法起寺
岡本集落の南側に所在します。別名を岡本寺、池尻寺とも呼ばれています。建創については三重塔の露盤銘から、聖徳太子の遺言により太子の死後、山背大兄王により岡本宮を寺にしたと伝えられています。建創当初の建物は三重塔のみですが、日本最古の三重塔で国宝に指定されています。また、平成5年に法隆寺と共に日本で最初に世界文化遺産に登録されました。



法輪寺
斑鳩の飛鳥時代寺院として著名な法輪寺ではありますが、その創建については、『聖徳太子伝私記』の聖徳太子の子である山背大兄王と、その子の由義王が、聖徳太子の病気平癒を願って建立したとする説と、『上宮聖徳太子伝補闕記』の斑鳩寺が焼失したことから、百済聞法師等三人が建立したとする二つの説があります。



中宮寺
法隆寺東院伽藍の東北に所在する聖徳宗の寺院です。大和三門跡尼寺の一つで中宮寺御所、斑鳩御所とも呼ばれていました。創建は聖徳太子の母である穴穂部間人(あなほべはしひと)皇后の没後に皇后の宮を改めて寺院にしたと伝えられています。現在の場所には室町時代末頃に移転したと伝えられていて、当初は現在の場所から400m東方に位置していました。有名な弥勒菩薩半跏思惟像や聖徳太子の没後、妃である橘大郎女が太子の冥福を祈って采女たちにつくらせた天寿国曼荼羅繍帳は共に国宝です。



吉田寺
吉田寺は、小吉田の集落の北方にあり、別名「ぽっくり寺」とも呼ばれています。
寺の縁起としましては、天智天皇の妹で孝徳天皇の后であった間人皇女の墓を祀る寺であったところに、永延二(988)年、恵心僧都がこの地に来られて、寺として整えたといわれています。
本尊阿弥陀如来坐像は座高515cmの丈六仏であり、平安時代の藤原期の作で国指定重要文化財の指定を受けています。
多宝塔は寛正三(1462)年の銘があり、国指定重要文化財の指定を受けています。
本堂の西側に接してある古墳状の高まりは、『延喜式』にある「龍田清水墓」と呼ばれている間人皇后の墓と伝えられています。この古墳状の高まりが古墳であるかどうかについては、発掘調査が実施されていないので詳細については不明ですが、古墳であったとしても、『日本書紀』天智天皇六年二月条によれば、間人皇后は母にあたる斉明天皇と越智丘上陵に合葬されたとあり、また『和州旧跡幽考』によれば、吉田寺南に二町ばかり南の田の塚を想定されているなどから、詳細については不明と言わざるをえません。



仙光寺
清涼山と号し、北庄の集落の西北部に所在し、宗派は融通念仏宗で由緒は不祥です。本尊の阿弥陀如来立像は全身に金泥漆箔を施しています。別に安置する十一面観音立像は一木造で彩色を施しています。平安時代の作で国の重要文化財に指定されています。



融念寺
神南集落のほぼ中央に所在し、宗派は融通念仏宗で由緒は不詳です。本尊は一木造の阿弥陀如来立像で彩色を施していて、室町時代初期のものとされています。当寺の北に接して旧神南寺の三室堂、俗に下堂、または地蔵堂といわれた一堂があり、ここに安置されていた地蔵菩薩立像は平安時代初期の作で右手で衣の端をつまむ姿をしています。また、聖観音立像は延久元(1069)年7月11日の造像銘があります。この2体の仏像は共に国の重要文化財に指定されています。これらの仏像は、一時期奈良国立博物館に寄託されていましたが、現在この場所には新たに建立された恵宝殿があり、2体の仏像はここに安置されています。



勝林寺
勝林寺は現在高安の集落内に所在しますが、安堵町に所在した「高安寺」の名をついでおりますので、高安寺の額が掲げてあります。
勝林寺には、現在奈良博物館に寄託されてはおりますが、高安集落の東にあります天満神社に隣接してあった「大日堂」に安置されていた木造薬師如来坐像と木造十一面観音立像と木造聖観音立像があり、これらはすべて国指定重要文化財です。木造薬師如来坐像は平安時代の藤原期の作であり、旧高安寺の本尊であったが明治時代にこちらに移されたと言われています。木造十一面観音立像は本尊と同じく平安時代の藤原期の作で、木造聖観音立像は平安時代初期の作といわれています。
また未指定ではありますが、木造大日如来坐像は大日堂の本尊であり、鎌倉時代の作と言われています。
大日堂の礎石につきましては現在確認できませんが、円形削り出しのある古代寺院の礎石の様であったと言われています。



伊弉冊命神社
五百井の集落の西北に所在し、祭神は伊弉冊命です。安永6(1777)年銘の奉献の石灯の銘文にも見られるように白山大権現とも称し、また、明治7(1874)年の大和国郷村社取調帳には白山神社と記されていました。本殿は一間社春日造の桧皮葺で朱塗に極彩色を施しています。この本殿は昭和29年、国の重要文化財に指定されました。昭和45(1954)年に実施された本堂の解体修理により、天正8(1580)年の墨書が見つかったことから桃山時代の建立であることがわかりました。



素盞鳴神社
興留集落に所在し、祭神は須佐男之命です。由緒は不祥ですが、元は村社でありました。本殿は一間社春日造の桧皮葺です。室町時代後期のもので県の重要文化財に指定されています。境内には他に八王子神社があります。



龍田神社
古代の「竜田道」であり、江戸時代に奈良から大坂へ向かう幹線道路の一つであった「奈良街道」添い龍田の町並みのほぼ中央にあります。祭神は天御柱神・国御柱神で風神です。現在の三郷町にあります「竜田神社(大社)」は、『延喜式』にある「竜田坐天御柱国御柱二座」のことで、この本宮に対して、斑鳩の龍田神社は新宮(新龍田)と呼ばれて、現在も秋の祭礼等にその関係が続いております。
しかし神社のはじまりは、神社北方の「御廟山(御坊山)」と呼ばれた丘陵が竜田における神南備であり、御神体として祀られていたのが、その南麓へ移ったものと考える説もあります。
中世には、竜田の町は竜田市として繁栄し、西宮より商売繁盛の神としての恵比須神の勧進もありました。また法隆寺との関係も深く、別当坊を神社に置いておりまして、秋の祭礼にし僧侶も供し竜田会または竜田三十講と称されて、法会を勧修していました。
竜田神社に隣接して、神仏習合の流れになかで神宮寺が建立され、社地の東側には塔や経堂があり、北坊など七つの坊があり、拝殿の東側の現在のたつた保育所のある場所には胎金堂(大日堂)があり、醍醐に移されたと伝えられている。また、社地の西方には鐘桜、南西方には観音堂がありました。図によると「伝灯寺」と記されていますが、寺名は文献史料で確認できていません。そして、寺としては神社の北東方向にあります浄慶寺に移ったといわれています。



太子道
聖徳太子が斑鳩宮から飛鳥まで通われたとされる斜行道路です。斑鳩と飛鳥を最短距離で結ぶために整備された道路で、今で言う国道に相当します。別名筋違道(すじかいみち)とも呼ばれています。今でも三宅町から田原本町にかけてその聖徳太子に関係する数多くあります。


業平道
平安時代の歌人であり、「伊勢物語」の主人公で美男で知られている在原業平が現在の櫟本(天理市)から高安(八尾市)の河内姫のもとへ通ったと伝えられている道です。

世界文化遺産


法隆寺地域の仏教建造物

平成5年12月11日、「法隆寺地域の仏教建造物」が「姫路城」などとともに世界遺産リストに登録されたことから、国内で初めての世界遺産が誕生しました。
法隆寺地域とは、文化財保護法による国史跡指定の「法隆寺旧境内」と「法起寺境内」の合計15.3ヘクタールのコアゾーンと、それらをとりまく形で、「古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法」による歴史的風土保存区域と都市計画法に基く「奈良県風致地区条例」による風致地区の指定がなされている範囲の合計570.7ヘクタールのバッファゾーンを指し、それらを合計した五百八十六ヘクタールについては、法隆寺とともに行政的には文化財保護と都市整備の両セクションとによって文化財の保存や歴史的環境の保全を図っております。
この登録に係る法隆寺の普遍的価値としては、国宝の金堂や五重塔をはじめとする世界最古の仏教木造建造物に、中国や朝鮮から伝えられその故地には残存していない七世紀の文化を垣間見ることができるだけでなく、奈良時代建立の東院夢殿をはじめ、江戸時代の建築様式をよく残している子院など、約千四百年間にわたる多くの仏教的建造物が存在し、現代にその歴史や文化を伝えている点にあります。まさに、我が国における建造物の博物館といってもよいでしょう。
ところで、斑鳩町の町民憲章には「歴史と文化を大切にし、貴重な遺産を次の世代に伝えます」と掲げておりまして、世界遺産写真展や文化講演会等の開催のほか、世界ユースフォーラムでの協力や世界遺産会議の開催など世界遺産に対する啓発活動といったソフト面でのサポートに努める一方で、法隆寺と史跡藤ノ木古墳とを結ぶルートに対する歴史環境に適した道路整備や、法起寺周辺においては電線の地中埋設化事業を全国的でもいち早く取り組み、ハード面での歴史的景観の保全に努めております。
最後に、平成15年はユネスコへの登録十周年記念の年であり、斑鳩町としましても記念講演会等の記念事業を実施しております。そして、日本初の世界文化遺産「法隆寺地域の仏教建造物」を有する町としての役割を果たしてまいりたいと考えております。

史跡藤ノ木古墳



発掘調査と整備事業
藤ノ木古墳は法隆寺西2丁目に所在する6世紀後半に造営された直径約50m、高さ約9mの円墳です。
これまでに昭和60年度、昭和63年度、平成12年度と平成15年度の合計5回の発掘調査を実施されております。
平成3年11月16日には、国史跡の指定を受け、 平成4年度から整備に向けた史跡指定地の公有化を進めています。
ところで、藤ノ木古墳の史跡整備に関しては、斑鳩町では 平成6年度より、学識経験者を中心に「史跡藤ノ木古墳整備検討委員会」を組織しており、平成8年3月には、『史跡藤ノ木古墳整備基本計画書』を策定し、現在もその整備方針や手法等について検討をしていただいております。
そうしたなかで、不幸にして平成7年11月28日に発生した「史跡藤ノ木古墳石棺き損事件」は、斑鳩町のみならず全国に対して、文化財保護の面だけでなく、各方面に衝撃を与えました。しかし、その一方で石室の破損状況を再確認する機会ともなりました。また平成7年1月17日に発生した「阪神・淡路大震災」の影響も懸念され、史跡藤ノ木古墳整備検討委員会においても、石室の破損状況の調査は整備方針にもかなりの影響を与えるという点からも早急な対応が望まれ、斑鳩町では文化庁及び奈良県教育委員会とも十分に協議を行ない、整備事業に先行する形での保存修理事業として石室の保存工学的調査を実施することとなりました。
そして平成11年度より保存修理事業として事業化がなり、初年度は写真測量を導入した石室の現状記録調査を実施するとともに、目視による破損状況の確認調査を実施いたしました。
そうしたなかで、藤ノ木古墳の閉塞石は6世紀後半の大型横穴式石室の閉塞石としては、全国的にみても良好な状況で遺存していたことにより、昭和60年の発掘調査以来、調査を実施せずその保存をはかってきたが、その閉塞石部分の石室羨道側壁についても、その破損状況を調査する必要が生じたことから、また見学者用通路の確保という点から、石室羨道閉塞部の発掘調査を第4次調査として、平成12年度に実施しております。
そして、史跡藤ノ木古墳整備基本計画書の見直しを経て、平成15年度より5ヶ年の計画で、史跡藤ノ木古墳整備事業を開始し、その初年度は墳丘の形と規模を確認するとともに、藤ノ木古墳を祀ってきた宝積寺の解明を目的とした整備に伴う第5次発掘調査を実施しております。
なお、出土遺物につきましては、主な出土遺物の一部につきましては、「奈良県立橿原考古学研究所附属博物館」(橿原市畝傍町50-2)にて展示されておりまして、町内では「斑鳩町文化財活用センター(愛称:斑鳩文化財センター)」(斑鳩町法隆寺西1-11-14・℡:0745-70-1200)にて主要な遺物のレプリカの展示と映像によるガイダンスをしております。

国指定文化財

区分
名称
数量
建造物
法隆寺金堂
一棟
建造物
法隆寺中門
一棟
建造物
法隆寺五重塔
一基
建造物
法隆寺東院夢殿
一棟
建造物
法隆寺上御堂(上堂)
一棟
建造物
法隆寺大講堂
一棟
建造物
法隆寺鐘楼
一棟
建造物
法隆寺経蔵
一棟
建造物
法隆寺廻廊
二棟
建造物
法隆寺東院南門(不明門)
一棟
建造物
法隆寺東院四脚門
一棟
建造物
法隆寺東院礼堂
一棟
建造物
法隆寺東院廻廊
二棟
建造物
法隆寺東院鐘楼
一棟
建造物
法隆寺東院伝法堂
一棟
建造物
法隆寺東院舎利殿及び絵殿
一棟
建造物
法隆寺南大門
一棟
建造物
法隆寺西円堂
一棟
建造物
法隆寺聖霊院
一棟
建造物
法隆寺食堂及び細殿
二棟
建造物
法隆寺東大門
一棟
建造物
北室院本堂
一棟
建造物
法隆寺地蔵堂
一棟
建造物
法隆寺三経院及び西室
一棟
建造物
法隆寺新堂
一棟
建造物
北室院表門
一棟
建造物
宗源寺四脚門(勧学院表門)
一棟
建造物
法隆寺東室
一棟
建造物
法隆寺妻室
一棟
建造物
福園院本堂
一棟
建造物
法隆寺綱封蔵
一棟
建造物
法隆寺大湯屋
一棟
建造物
法隆寺大湯屋表門
一棟
建造物
西園院客殿
一棟
建造物
西園院上土門
一棟
建造物
寶珠院本堂
一棟
建造物
法隆寺西院大垣
三棟
建造物
法隆寺西院東南隅子院築垣
二棟
建造物
法隆寺西院西南隅子院築垣
二棟
建造物
法隆寺東院大垣
三棟
建造物
法隆寺薬師坊庫裡
一棟
建造物
法隆寺西園院唐門
一棟
建造物
法隆寺北室院太子殿
一棟
建造物
法隆寺中院本堂
一棟
建造物
旧富貴寺羅漢堂
一棟
建造物
律学院本堂
一棟
絵画
絹本著色蓮池図
一隻
絵画
絹本著色星曼荼羅図
一面
絵画
絹本著色扇面古写経
一幅
絵画
絹本著色孔雀明王像
一幅
絵画
絹本著色毘沙門天像
一面
絵画
絹本著色五尊像
一幅
絵画
絹本著色十六羅漢像
一双
絵画
絹本著色聖徳太子像
一面
絵画
金堂内陣旧壁画
二十面
絵画
金堂外陣旧壁画
十二面
絵画
五輪塔初層旧壁画
十八面
絵画
絹本著色聖皇曼荼羅図
一幅
彫刻
木造観音菩薩立像(百済観音)
彫刻
木造観音菩薩立像(夢殿安置)
彫刻
銅造薬師如来坐像(金堂安置)
彫刻
木造四天王立像(金堂安置)
彫刻
木造観音菩薩立像(九面観音)
彫刻
銅造観音菩薩立像(金堂薬師如来脇侍)
彫刻
木造観音菩薩立像
彫刻
銅造観音菩薩立像(夢違観音)
彫刻
金銅阿弥陀三尊像
彫刻
木造伝観勒僧正坐像
彫刻
木造薬師如来及両脇侍坐像(講堂安置)
彫刻
木造釈迦如来及両脇侍坐像(上堂安置)
彫刻
塑像薬師如来坐像
彫刻
塑像梵天、帝釈天立像
彫刻
木造弥勒菩薩半跏像
彫刻
塑像道詮律師坐像(所在夢殿)
彫刻
木造毘沙門天、吉祥天立像(金堂安置)
彫刻
木造四天王立像(上堂四天王)
彫刻
木像梵天、帝釈天立像(所在食堂)
彫刻
木造聖徳太子山背王、殖栗王、卒末呂王、恵慈法師坐像(聖霊院安置)
彫刻
乾漆薬師如来坐像(西円堂安置)
彫刻
木造地蔵菩薩立像
彫刻
木造薬師如来両脇士像(新堂安置)
彫刻
木造聖観音立像(夢殿観音前立)
彫刻
木造如意輪観音坐像(聖霊院安置)
彫刻
木造地蔵菩薩立像(聖霊院安置)
彫刻
木造四天王立像(新堂安置)
彫刻
金銅釈迦如来文殊菩薩像一座
彫刻
金銅薬師如来坐像(伝峰薬師胎内仏)
彫刻
乾漆阿弥陀如両脇士像
彫刻
金銅誕生釈迦仏立像、観世音菩薩立像
彫刻
厨子入銅板押出阿弥陀三尊及僧形像
一基
彫刻
銅板押出如来及両脇侍立像
一面
彫刻
銅板舟形後屏
一面
彫刻
塑像四天王立像
彫刻
木造阿弥陀如来坐像
彫刻
木心乾漆弥勒菩薩坐像
彫刻
木造文殊普賢菩薩立像
彫刻
木造日光月光菩薩立像
彫刻
乾漆観音勢至菩薩立像
彫刻
木造観音勢至菩薩立像
彫刻
木造舞楽面
三十五面
彫刻
木造菩薩面
三面
彫刻
木造善女竜王立像
彫刻
木造阿弥陀如来坐像(三経院安置)
彫刻
木造十二神将立像(西円堂安置)
彫刻
厨子入木造聖徳太子坐像(所在御絵殿)
彫刻
木造弥勒菩薩坐像
彫刻
木造千手観音立像(所在地蔵堂)
彫刻
木造如意輪観音坐像
彫刻
木造阿弥陀如来坐像(所在夢殿)
彫刻
木造普賢延命坐像(所在金堂)
彫刻
木造釈迦如来坐像
彫刻
木造弥勒仏坐像
彫刻
木造阿弥陀如来坐像
彫刻
木造天鼓雷音如来坐像
彫刻
木造薬師如来坐像
彫刻
木造釈迦如来坐像
彫刻
木造薬師如来坐像
彫刻
金銅釈迦如来立像

県指定文化財

区分
名称
数量
建造物
法輪寺
一棟
彫刻
木造釈迦如来坐像
建造物 素盞鳴神社本殿 一棟
工芸 一口
工芸 阿弥陀三尊繍仏 一幅
天然記念物 ソテツの巨樹  
史跡
仏塚古墳
 

町指定文化財

区分
名称
数量
史跡
駒塚古墳
 
史跡
調子丸古墳  

斑鳩町は、法隆寺や藤ノ木古墳に代表されるように歴史と文化の豊かなまちです。

 その歴史のはじまりは、JR法隆寺駅の北方における発掘調査において旧石器が採集されていることから、その歴史は後期旧石器時代にさかのぼります。そういった歴史を背景に、町内には文化財が多くあります。
 発掘調査などからは、縄文時代や弥生時代の斑鳩は比較的小さな集落が点在しているといった状況であったようですが、特に藤ノ木古墳に代表される古墳時代後期と呼ばれている6世紀後半頃から、聖徳太子が飛鳥地方から斑鳩へ移り住んだ飛鳥時代にかけては、斑鳩宮や岡本宮などの諸宮のほかに、斑鳩寺(若草伽藍跡)や中宮尼寺が建立されて、当時の宮都であった飛鳥地域と遜色のない文化の華がひらきました。その後、法起寺や法輪寺の建立の着手がありましたが、蘇我氏の襲撃による上宮王家の滅亡により、完成は見なかったようです。
 明治時代以降現在に至っても「法隆寺再建・非再建論争」の決着はしていないとの考えもありますが、斑鳩寺の焼失後と考えられる七世紀後半の世界最古の現存する木造建物群を有する法隆寺の建立により、中宮寺、法起寺、法輪寺と日本を代表する古代寺院の建設が本格的に再開し、白鳳期の仏教文化がひときわ輝きを放ちました。
 その後、奈良時代に斑鳩宮跡に夢殿で有名な法隆寺東院の建立をはじめ、特に法隆寺におきましては、現在に至るまで綿々と仏教文化を伝えられてきましたことから、「法隆寺地域の仏教建造物」として、国内初の世界文化遺産となっております。
 現在、町内に所在する文化財のうち、文化財としての学術上価値の高いものとしまして、指定を受けている文化財は、国宝41件、国指定重要文化財175件、国史跡6件、国登録有形文化財19件、県指定文化財7件、町指定文化財2件を数え、これらの他にもまだ多くの文化財が町内にはあります。