斑鳩町は奈良盆地の西北部から矢田丘陵(やたきゅうりょう)の南端にあります。経度(けいど)、緯度(いど)であらわすと町の中心は東経(とうけい)135度44分、北緯(ほくい)34度36分に位置しています。また、町の南には大和川が流れ、東には富雄川、西には竜田川が流れています。
 
 斑鳩町のまわりを見てみると、北側は生駒市
(いこまし)、南側は大和川をへだてて王寺町(おうじちょう)、河合町(かわいちょう)、東側は、大和郡山市(やまとこおりやまし)、安堵町(あんどちょう)、西側は、平群町(へぐりちょう)、三郷町(さんごうちょう)に接しています。

 斑鳩町の大きさは南北6.4km、東西4.4km、で面積は14.27km
2です。
 また、斑鳩町の北側の丘陵地域は海抜
(かいばつ)200〜300mで、その地質(ちしつ)はおもに花崗岩類(かこうがんるい)からなり、南部の平地は海抜48m前後で、土地はよくこえた沖積層(おきせきそう)からなっていて、古くから農業を中心として発展してきました。

 みなさんの名前をつけるとき、お父さんやお母さんはいろんな願いをこめてつけられたことでしょう。
 それでは、「斑鳩町」という名前はどうやってできたのでしょうか?
 一説によると、この地に「イカル」という大きさはムクドリぐらいの鳥が群れをなしていたためだと言われています。この鳥は、漢字で斑鳩・鵤ともかきます。
 また、伊香留我伊香志男命
(いかるがいかしおのみこと)がこの地の神として、祀(まつ)られていることから言われたという説があります。

 斑鳩町の歴史はたいへん古く、藤ノ木古墳をはじめたくさんの古代文化遺産が残されています。聖徳太子が飛鳥(あすか)から斑鳩宮(いかるがのみや)に移り住まれたことで斑鳩の地は有名になり、斑鳩は仏教信仰の地として太子信仰(たいししんこう)の中心地となりました。

 近世にはいり交通の中心であった法隆寺の門前や大阪街道(おおさかかいどう)に接した竜田村は市(いち)や宿場町(しゅくばまち)として栄え、その後、明治の廃藩置県(はいはんちけん)をへて、昭和22年2月11日、龍田町、法隆寺村、富郷村が合併して現在の斑鳩町が誕生しました。


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