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あしあと

    社寺

    • [公開日:2016年8月17日]
    • [更新日:2016年8月17日]
    • ID:46

    社寺

    法隆寺

    金堂の薬師如来像の光背銘や「法隆寺伽藍縁起并流記資財帳」等によりますと、用明天皇の病気平癒を祈って寺と仏をつくることを発願しましたが、そのまま崩御されたことから推古天皇と聖徳太子がその願いを引き継ぎまして建立した寺だと伝えられています。
    しかし、法隆寺につきましては、明治時代以降現在に至るまで続いております「法隆寺再建・非再建論争」として未だに決着しているわけではありませんが、聖徳太子により建立された「斑鳩寺」は現在の法隆寺西院ではなく、その南東方向にある「若草伽藍跡」ではないかという説が有力で、現在の法隆寺西院は、『日本書紀』の天智天皇九(670)年に、斑鳩寺が焼失して間もなく建てられた寺院と考えられています。
    奈良時代になり、聖徳太子の斑鳩宮の荒廃ぶりを嘆き、孝謙天皇により建立されたのが「夢殿」で、この夢殿を中心とした地域を法隆寺東院と呼ばれています。

    法起寺

    岡本集落の南側に所在します。別名を岡本寺、池尻寺とも呼ばれています。建創については三重塔の露盤銘から、聖徳太子の遺言により太子の死後、山背大兄王により岡本宮を寺にしたと伝えられています。建創当初の建物は三重塔のみですが、日本最古の三重塔で国宝に指定されています。また、平成5年に法隆寺と共に日本で最初に世界文化遺産に登録されました。

    法輪寺

    斑鳩の飛鳥時代寺院として著名な法輪寺ではありますが、その創建については、『聖徳太子伝私記』の聖徳太子の子である山背大兄王と、その子の由義王が、聖徳太子の病気平癒を願って建立したとする説と、『上宮聖徳太子伝補闕記』の斑鳩寺が焼失したことから、百済聞法師等三人が建立したとする二つの説があります。

    中宮寺

    法隆寺東院伽藍の東北に所在する聖徳宗の寺院です。大和三門跡尼寺の一つで中宮寺御所、斑鳩御所とも呼ばれていました。創建は聖徳太子の母である穴穂部間人(あなほべはしひと)皇后の没後に皇后の宮を改めて寺院にしたと伝えられています。現在の場所には室町時代末頃に移転したと伝えられていて、当初は現在の場所から400m東方に位置していました。有名な弥勒菩薩半跏思惟像や聖徳太子の没後、妃である橘大郎女が太子の冥福を祈って采女たちにつくらせた天寿国曼荼羅繍帳は共に国宝です。

    吉田寺

    吉田寺は、小吉田の集落の北方にあり、別名「ぽっくり寺」とも呼ばれています。
    寺の縁起としましては、天智天皇の妹で孝徳天皇の后であった間人皇女の墓を祀る寺であったところに、永延二(988)年、恵心僧都がこの地に来られて、寺として整えたといわれています。
    本尊阿弥陀如来坐像は像高225.8cmの丈六仏であり、平安時代の藤原期の作で国指定重要文化財の指定を受けています。
    多宝塔は寛正三(1462)年の銘があり、国指定重要文化財の指定を受けています。
    本堂の西側に接してある古墳状の高まりは、『延喜式』にある「龍田清水墓」と呼ばれている間人皇后の墓と伝えられています。この古墳状の高まりが古墳であるかどうかについては、発掘調査が実施されていないので詳細については不明ですが、古墳であったとしても、『日本書紀』天智天皇六年二月条によれば、間人皇后は母にあたる斉明天皇と越智丘上陵に合葬されたとあり、また『和州旧跡幽考』によれば、吉田寺南に二町ばかり南の田の塚を想定されているなどから、詳細については不明と言わざるをえません。

    仙光寺

    清涼山と号し、北庄の集落の西北部に所在し、宗派は融通念仏宗で由緒は不祥です。本尊の阿弥陀如来立像は全身に金泥漆箔を施しています。別に安置する十一面観音立像は一木造で彩色を施しています。平安時代の作で国の重要文化財に指定されています。

    融念寺

    神南集落のほぼ中央に所在し、宗派は融通念仏宗で由緒は不詳です。本尊は一木造の阿弥陀如来立像で彩色を施していて、室町時代初期のものとされています。当寺の北に接して旧神南寺の三室堂、俗に下堂、または地蔵堂といわれた一堂があり、ここに安置されていた地蔵菩薩立像は平安時代初期の作で右手で衣の端をつまむ姿をしています。また、聖観音立像は延久元(1069)年7月11日の造像銘があります。この2体の仏像は共に国の重要文化財に指定されています。これらの仏像は、一時期奈良国立博物館に寄託されていましたが、現在この場所には新たに建立された恵宝殿があり、2体の仏像はここに安置されています。

    勝林寺

    勝林寺は現在高安の集落内に所在しますが、安堵町に所在した「高安寺」の名をついでおりますので、高安寺の額が掲げてあります。
    勝林寺には、現在奈良博物館に寄託されてはおりますが、高安集落の東にあります天満神社に隣接してあった「大日堂」に安置されていた木造薬師如来坐像と木造十一面観音立像と木造聖観音立像があり、これらはすべて国指定重要文化財です。木造薬師如来坐像は平安時代の藤原期の作であり、旧高安寺の本尊であったが明治時代にこちらに移されたと言われています。木造十一面観音立像は本尊と同じく平安時代の藤原期の作で、木造聖観音立像は平安時代初期の作といわれています。
    また未指定ではありますが、木造大日如来坐像は大日堂の本尊であり、鎌倉時代の作と言われています。
    大日堂の礎石につきましては現在確認できませんが、円形削り出しのある古代寺院の礎石の様であったと言われています。

    伊弉冊命神社

    五百井の集落の西北に所在し、祭神は伊弉冊命です。安永6(1777)年銘の奉献の石灯の銘文にも見られるように白山大権現とも称し、また、明治7(1874)年の大和国郷村社取調帳には白山神社と記されていました。本殿は一間社春日造の桧皮葺で朱塗に極彩色を施しています。この本殿は昭和29年、国の重要文化財に指定されました。昭和45(1954)年に実施された本堂の解体修理により、天正8(1580)年の墨書が見つかったことから桃山時代の建立であることがわかりました。

    素盞鳴神社

    興留集落に所在し、祭神は須佐男之命です。由緒は不祥ですが、元は村社でありました。本殿は一間社春日造の桧皮葺です。室町時代後期のもので県の重要文化財に指定されています。境内には他に八王子神社があります。

    龍田神社

    古代の「竜田道」であり、江戸時代に奈良から大坂へ向かう幹線道路の一つであった「奈良街道」添い龍田の町並みのほぼ中央にあります。祭神は天御柱神・国御柱神で風神です。現在の三郷町にあります「竜田神社(大社)」は、『延喜式』にある「竜田坐天御柱国御柱二座」のことで、この本宮に対して、斑鳩の龍田神社は新宮(新龍田)と呼ばれて、現在も秋の祭礼等にその関係が続いております。
    しかし神社のはじまりは、神社北方の「御廟山(御坊山)」と呼ばれた丘陵が竜田における神南備であり、御神体として祀られていたのが、その南麓へ移ったものと考える説もあります。
    中世には、竜田の町は竜田市として繁栄し、西宮より商売繁盛の神としての恵比須神の勧進もありました。また法隆寺との関係も深く、別当坊を神社に置いておりまして、秋の祭礼にし僧侶も供し竜田会または竜田三十講と称されて、法会を勧修していました。
    竜田神社に隣接して、神仏習合の流れになかで神宮寺が建立され、社地の東側には塔や経堂があり、北坊など七つの坊があり、拝殿の東側の現在のたつた保育所のある場所には胎金堂(大日堂)があり、醍醐に移されたと伝えられている。また、社地の西方には鐘桜、南西方には観音堂がありました。図によると「伝灯寺」と記されていますが、寺名は文献史料で確認できていません。そして、寺としては神社の北東方向にあります浄慶寺に移ったといわれています。

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