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あしあと

    遺跡

    • [公開日:2016年9月9日]
    • [更新日:2016年9月9日]
    • ID:49

    遺跡

    西里遺跡

    西里集落を中心した、標高60m前後の緩やかな丘陵南斜面に立地します。斑鳩では数少ない縄文、弥生時代の遺跡が見つかっています。弥生時代では方形周溝墓などがあります。また、飛鳥時代と考えられる掘立柱建物なども見つかっています

    酒ノ免遺跡

    掘立柱建物のみで構成された古墳時代の集落遺跡です。斑鳩東小学校建設に伴い実施した発掘調査により発見されました。その後実施された発掘調査から、現在までに50棟以上の建物が確認されています。古墳時代後期である5世紀代から6世紀代の時期のものが多くを占めています。奈良県下でも有数の集落遺跡の一つです。

    東福寺遺跡

    東福寺遺跡は斑鳩町東福寺を中心に展開する遺跡です。この辺りにはその名のとおり東福寺という寺がかつてありました。明治の廃仏棄釈に伴い廃寺となり、今ではその名を地名に残すのみです。この遺跡からは古墳時代の土壙や掘立柱建物、飛鳥時代の掘立柱建物、また、中世の井戸や建物など東福寺に関係すると思われる遺構が見つかっています。

    駒塚古墳

    国道25号の南側、幸前集落と国道25号線を挟んだ南側に所在する、前方部を南に向けた前方後円墳です。全長は約49mですが、前方部が削られていることから本来の全長は明らかではありません。古墳名は聖徳太子の愛馬である「黒駒」を葬ったとの伝承に由来します。平成12年度から14年度にかけて斑鳩町教育委員会により発掘調査を実施しました。調査の結果、古墳時代前期(4世紀後半)に築造されたことが明らかとなりました。駒塚古墳の南側に所在する調子丸古墳と共に平成4年10月8日に町史跡の指定を行いました。

    調子丸古墳

    駒塚古墳の南側約100mに位置します。直径14m程度の円墳です。聖徳太子の舎人で「黒駒」の世話をしていた「調子麿」の墓と伝えられています。平成12年度に古墳の北側で行った発掘調査では、馬具などの表現を施した精巧な造りの土馬の頭部が出土しました。時期は不明ですがあまり類例のないものです。

    瓦塚古墳群

    瓦塚古墳群は、前方後円墳2基と円墳1基からなる古墳群で、法起寺の北西方向の標高70~80mの尾根上に立地します。
    この古墳群の北端にある瓦塚1号墳は、昭和50年度に範囲確認の発掘調査が実施され、全長約97m、後円部径約60m、前方部幅約47mの前方後円墳で、二段の埴輪列があることが確認されました。墳丘表面には葺石があり、後円部東側からは家形埴輪や鳥形埴輪などの形象埴輪が出土したマツリの場としての石敷きの祭祀場が見つかっています。埋葬施設については未調査ですが、竪穴式石室か粘土槨と考えられています。しかし、北側に接する大和郡山市に所在する小泉大塚古墳が竪穴式石室でありますことから、首長墓の系譜として同一と考えれば、同じく竪穴式石室と推測されます。
    出土遺物につきましては、高さ40~60cmの高さの円筒埴輪や壷形埴輪があり、これらの埴輪のなかには、ヘラ記号や特殊な文様が描かれたものもあります。また特異な遺物として、復原しましたら8~11cm程度になる魚形土製品や直径3~5cmの円盤形土製品が出土しており、行者塚古墳(兵庫県加古川市)で出土した土製品の一群のように、古墳の祭祀に用いられたものとして理解されています。
    以上のような内容から、瓦塚1号墳は、5世紀初め頃の斑鳩地域またはもう少し広く古代の平群地域一帯を治めていた首長墓と考えられています。
    瓦塚2号墳につきましては、発掘調査は実施しておりませんが、測量調査が実施され、全長約95mの前方後円墳で、1号墳とほぼ同じ設計プランで造営年代もほぼ同じ頃と考えられています。しかし、他の地域のように尾根上に主軸方向を同じくして並ぶのではなく、1号墳が尾根線に主軸を合せて造営されているのに対して、その制約を受けたかたちで、古墳の主軸線が垂直方向に造営されています。
    瓦塚3号墳につきましては、直径40m程度の円墳ではないかと考えられていますが、古墳であるかどうかを含め、詳細につきましては不明です。
    なお、「瓦塚」の名前につきましては、瓦塚2号墳の後円部西側斜面に造られた瓦窯あとである「三井瓦窯跡」があり、その瓦片がひろくちらばっていたことに由来しています。

    斑鳩大塚古墳

    五百井の集落の北側、矢田丘陵から南に延びた緩やかな丘陵上に立地しています。直径35m、高さ4mの円墳です。昭和29(1954)年、墳丘上に忠霊塔を建設することになり、その工事の際に埋葬施設が発見されたことから、緊急調査が行われました。調査の結果、鏡、武器、武具などが出土しました。これらの出土遺物から5世紀初め頃の古墳と考えられています。

    仏塚古墳

    仏塚古墳は、法隆寺背後の通称「寺山」と呼ばれている丘陵よりさらに北にのびた小丘陵の先端部に立地します。
    昭和51年の発掘調査の結果、墳丘規模等については一辺約23mの方墳であると考えられています。埋葬施設は南方向に開口する両袖式横穴式石室で、羨道部が一部未発掘であるが、確認できた石室長で9.36mを測ります。玄室床には礫が敷かれ、その下部には玄室を環状に巡って玄門部で合流して羨道部へ流れる排水溝が敷設されていました。
    出土遺物のうち古墳造営当初のものとしては、亀甲形陶棺片や6世紀末頃の須恵器のほか、馬具や耳環や刀子があります。また鎌倉時代後期~室町時代にかけての金銅仏や塑像仏片や花瓶や六器などの仏具、瓦器碗や土師皿などの土器類など仏教関連する遺物が多量に出土しており、中世に石室が仏堂として利用されていたことを示しています。また、近くにはその成立が鎌倉時代と考えられている極楽寺があり、それとの関係が指摘されています。
    なお、法隆寺の北方にひろがる小丘陵には、6世紀から7世紀にかけての古墳が点在しています。7世紀と言えばまさに聖徳太子が斑鳩へ進出し、その後約半世紀にわたり上宮王家による活躍があったことから、斑鳩宮との造営時期が近接する上、斑鳩宮を臨む立地であることなどの点から、仏塚古墳の被葬者と上宮王家との関連を指摘する意見もあります。

    御坊山古墳群

    藤ノ木古墳の西側で、宅地造成工事中に3基の古墳が発見されました。なかでも3号墳は横口式石槨という特殊な構造をしたもので、漆塗りの陶棺内には人骨と共に、三彩を施した硯、ガラス筆管、琥珀製枕などが出土しました。石槨の構造や副葬品から7世紀代の古墳と推定されています。現在これらの古墳は住宅地となり消滅してしまいましたが、3号墳の横口式石槨や副葬品は橿原考古学研究所附属博物館に常設展示されています。

    史跡三井

    この井戸は、法輪寺旧境内の範囲に含まれ、聖徳太子が開掘した三基のうちのひとつだと伝えられており、法輪寺の別名である「三井寺」や「御井寺」についても、この井戸に由来しているようです。
    この井戸は、明治年間には埋没していましたが、昭和7年に発掘調査が実施され、深さ約4.25m、上部直径約91cmであることがわかりました。
    構造としては、底部に4個の石を方形に組み合わせて、その内外の隙間より水が湧き出るようになっており、側壁は中膨れの筒状をしており、底面より約1.15mの高さまでは乱石積みで構築し、その上約3mを長弧長約29cm、短弧長約23cm、長さ約23cm、厚さ約7.6cm扇形の「せん」を積んでありました。
    法輪寺より出土する瓦には「王井」の文字を刻印した瓦が出土しており、せん積みというその特異な構造ということからも、法輪寺とこの井戸とはかなり密接な関係があったと推察されます。

    法輪寺

    斑鳩の飛鳥時代寺院として著名な法輪寺ではありますが、その創建については、『聖徳太子伝私記』の聖徳太子の子である山背大兄王と、その子の由義王が、聖徳太子の病気平癒を願って建立したとする説と、『上宮聖徳太子伝補闕記』の斑鳩寺が焼失したことから、百済聞法師等三人が建立したとする二つの説があります。
    これまでに境内において、石田茂作氏による法隆寺式伽藍配置建物全体の調査や、三重塔再建に伴う基壇の調査などが実施されていますが、金堂跡や講堂跡等については、1950年に実施された調査写真や略測図しかなく、その詳細について明らかでなかったことから、平成12年度より、斑鳩町により学術調査として発掘調査に着手しています。
    金堂については、平成12年度の発掘調査では、金堂の基壇である石積み基壇の基底石と考えられる石列および版築の施された基壇を確認し、東西約15m×南北約13mを測りました。また基壇の造営にあたっては、基壇のおよそ半分が旧地形を削った安定した場所に立地しているためか、掘り込み地業はなされていないことがわかりました。
    塔については、三重塔の再建に伴い発掘調査が実施されており、乱石積みの二重基壇で、下成基壇は一辺13.2m、高さ約20cmで、上成基壇は一辺12.4m、高さ1mを測ります。心礎は基壇上面より約2.3m地下にあり、直径1.65m×1.52m、厚さ80cmほどの花崗岩製で、その上面中央に直径約36cm、深さ4cmの蓋を納める掘り込みがなされてあり、さらにその底に直径15cm、深さ10cmの舎利孔が穿かれていました。そして、この舎利孔からは、元文四(1739)年の修理の際に、国の重要文化財に指定されています銅製の舎利壺がみつかっています。
    講堂については、東側半分の発掘調査が実施されており、基壇の規模は東西約30m×南北約12.6mと推定されています。なお基壇の種類は、南側のみ瓦積みで、東面・北面は乱石積みであったといわれています。
    中門については、現在の門の北側で礎石を抜き取った跡が確認され、基壇の規模は東西約12m×南北約8.4mと推定されています。
    回廊については、南面の発掘調査により中門の東西に東側8間、西側7間、柱間は約3.3mと推測されており、他の面は不明です。回廊基壇規模としては、東西約60m、南北41mと推定されています。
    南大門については、絵図には描かれており、その推定地の近くが発掘調査されていますが、明確な遺構は検出されていません。
    平成12年度の発掘調査により出土した遺物としてはその多くが瓦類であり、出土した軒瓦のセット関係のうち、中世以前のものとしては、飛鳥前期、白鳳期、奈良期の三セットがあります。
    金堂の造営時期については、基壇周辺より出土した瓦やその出土状況の検討等から、塔と同様に飛鳥期の軒瓦を所用していたと判断できることから、7世紀後半で大過はないものと思われます。
    塔の基壇より飛鳥期の軒瓦が出土していること、そして飛鳥時代寺院建立のあり方から、講堂が金堂や塔の建築に先行したとは思えないことから、それより古い飛鳥期の軒瓦については、法隆寺式伽藍配置を構成している建物に用いられていたと考えるよりは、それらに先行する建物が存在し、それに用いられていたと考える方がより妥当であると思われ、この飛鳥期と白鳳期の瓦の存在こそが、冒頭に述べた二つの創建説を解明する鍵になるものと推察されることから、今後はこの「前法輪寺」とも言うべき前身の仏教的建物の遺構検出に期待が寄せられています。

    法起寺

    法起寺の発掘調査は昭和35年の石田茂作氏による調査以来数度にわたり実施されています。調査の結果、金堂を西に塔を東に配置した法隆寺とは逆の建物配置をとることが明らかとなり、この配置を法起寺式伽藍配置と名付けられました。また、法起寺とは異なる遺構も見つかっています。磁北に対して西に20度の振れをもつ柵列や掘立柱建物、石組溝などです。これは若草伽藍(建創法隆寺)や斑鳩宮の方位と一致することから、法起寺の全身遺構である岡本宮のものと推定されています。

    史跡中宮寺跡

    現在の中宮寺は法隆寺東院の東側にありますが、元は400m東方に所在していました。現在の中宮寺と区別するため創建中宮寺を中宮寺跡と呼んでいます。現在でも塔、金堂の基壇が土壇状の高まりとなり残っています。これまで数度に渡り発掘調査が実施されていて、調査の結果から、塔、金堂が一直線に並ぶ四天王寺式伽藍配置をしていたことが明らかとなっています。これは聖徳太子が建立した斑鳩寺(若草伽藍)と同じ建物配置をしています。ただし、講堂や回廊は見つかっていないことから未完の寺であったようです。中宮寺跡は我が国における貴重な遺跡であることから平成2年と平成13年に国史跡の指定を受けました。

    史跡三井瓦窯跡

    三井瓦窯跡は、法起寺西側の尾根丘陵に立地する瓦塚2号墳後円部の西側斜面に所在します。
    昭和6年に果樹園を開墾中に偶然に発見され、奈良県による第1次調査が実施され、天井部のア-チの残存状況がよい約40度の勾配をもつ「地下式有階有段登窯」(1号窯)であることが明らかとなり、窯内からは丸瓦と平瓦が出土しました。
    瓦窯の操業時期としては、出土瓦と窯近くで採集された軒丸瓦が法輪寺や法起寺出土の八弁複弁蓮華文軒丸瓦と同范瓦であることなどから、七世紀後半から八世紀初め頃と考えられています。
    窯体の規模としては、残存する窯体の水平長は約4.9mで、高さは約3.8mを測ります。また燃焼部の最大径は約1.8mで、焼成部の第1段目から天井までの高さ約1.3mであり、第1段は燃焼部底より高さ約79cmであり、それより上段の第2段から現存する第10段までの段の高さ36.4~45.5cmで、各段の幅は約30cmを測ります。
    なお、平成7年度には、災害復旧工事に伴い第2次調査が実施され、1号窯に先行する天井部の崩落した2号窯を検出しています。また1号窯の焚口前面の平坦部において丸瓦を管として利用した排水溝や柱穴を検出するとともに、二面の灰原が検出されています。
    三井瓦窯跡は、斑鳩における7世紀の斑鳩古代寺院の成立に関連する生産遺跡として重要といえるでしょう。

    上宮遺跡

    上宮遺跡は、平成3年度の歴史公園整備事業に伴い発掘調査を実施したところ、奈良時代の大型の掘立柱建物群が見つかったことにより新たに名付けられた弥生時代から鎌倉時代の複合遺跡です。
    発掘調査の結果、五世紀から六世紀にかけての掘立柱建物や溝を検出し、須恵器や埴輪等が出土しているが、遺跡の中心は飛鳥~奈良時代のものです。
    飛鳥時代の井戸や溝からは比較的まとまったかたちで、七世紀前半頃の土器が比較的まとまって出土しており、その他に八弁素弁蓮華文軒丸瓦や二次焼成を受けた凝灰岩製切石やせん等の仏教的建物の存在を推測させる遺物も出土しています。これらのこととあわせて法隆寺で聖徳太子の亡くなった宮殿の跡地に建てられたと伝えられる成福寺が所在していることから、『大安寺伽藍縁起并流記資材帳』に記載のある「飽波葦墻宮」の実在性が有力視されています。
    奈良時代の大型掘立柱建物群は二時期に分けられ、現在までに八棟分が確認されています。その中でも「主殿」と考えられる東西7間×南北5間の建物は二面庇の大型の建物であり、この建物を中心に平城宮や官衙等でみられる「コ」の字状の建物配置をしています。そして出土遺物には、平城宮や平城京出土瓦の同范瓦を含む多くの瓦や土器が出土しており、文字史料としては、墨書土器二点と木簡一点が出土していますが、遺跡の性格を決定付けるものではありません。これらのことを勘案すると、奈良期の遺構については、『続日本紀』の神護景雲元年と三年の記事にある称徳天皇が河内へ行幸する際に、止宿した「飽波宮」である蓋然性が高いといえます。なお、平安時代末頃から鎌倉時代の井戸を5基分検出し、そのうちの一基には一本木を刳り抜いた井戸枠を使用していました。出土遺物としては白磁碗、瓦器碗、土師皿などが出土していますが、これらは、平安時代頃に成立したと考えられている成福寺に関連すると思われます。
    このように上宮遺跡は、斑鳩において法隆寺等の寺院以外の飛鳥時代から奈良時代の歴史的様相を示す重要な遺跡といえるでしょう。

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